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Quality of life No.1

この2年間、愛する犬のチャウダー の寿命のことが医者の口から出ることが多くなっていた。特に私がどうしても日本に長期間滞在しなければならなくなった時、私の愛する犬は歳老いてきていた。 私の日本の3カ月、息子とチャウダーの生活。たかが3ヶ月が大きな3ヶ月だったに違いない。 この3ヶ月の間にチャウダーの関節炎はかなり悪くなってしまった。 犬だからと人間以下に軽くみてはいけない。彼の精神的なものは彼の健康状態にかなりの影響を与える。 3ヶ月のわたしの日本のタスクを処理する間、健康に問題があったチャウダーを息子に託したのは、私が彼を見捨てたと言う考えを持たせなく無かったからで、ましてや、彼がそう思って、私が居ない間に天国にいったりしたら、それこそ生涯私は地獄を味合わなければならない。彼は一緒に育った息子と暮らしたら、彼は私が戻って来ることを知っていると思った。チャウダーは私を待った。半身不随になったものの、彼の人生は終わったとはとても思えない。 私と今までの医者との会話で14年間、出てこなかった言葉をアメリカ人の友達が使った。 ”What about his quality of life?" 暫くして、ニュージャージーのアメリカの家族の延長上にある家族の一人が彼女の老いたウサギの寿命を語るときにまたこの言葉を使った。 "The words of quality of life?”、というと、即座に”It meant Pain.”と答えた。 私が感動した言葉 "人生の質”が、”傷み” 如何にも簡単で重みのない言葉に変身してしまった。 Quality of life は決して犬のための言葉では無いのだろうが、2度もこの言葉が動物の寿命を語るときに出てくると、あぁ、この言葉はこういう状況に使うのか?と英語を勉強するのである。 この機会に私はチャウダーを通して人間のQuality of lifeを考えてみる。 2年前から階段から落ちて以来、少しずつ、少しずつ、階段は辛くなっていた。 去年から床が滑るところでは泳いでいて、立てなくなっていた。 彼の関節炎はニュージャージの一番長いつきあいの医者から言い渡されていて、この時点でどうこの彼の健康を私が決断するかとまで言われていた。私の日本の問題を解決するのに一体何カ月必要
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Each happen to have the reason No.1

時は過ぎて行く、私の決断に対する自責の念が過去になり、その決断の上にある現実に生きていく。 このアパートに引っ越した時は3年前の半分以下の量になっていた私の所持品は、通常の一人の住居の引っ越しと考えると恐ろしく一杯あった。20年以上ホームオフィスで生活してきたし、息子の思い出の物などの箱を10箱ほど捨てずに彼がいつか引き取るまで私が持ち歩いている。だから私の所持品はワンベットルームの引っ越しではない。仕事のスペースが一番大事な私の生活はベットは比較的邪魔な存在である。アメリカ人のようにベットルームがメインではない。だから、狭くなるにつれて私のベットは捨てられて行き、残っているソファーベットが私のベットになる予定だった。 引っ越しの日、私のベットはエレベーターの横に置かれたまま部屋には入ってこなかった。エレベーターに入らない!捨てることに苦労し続ける人生だから、お金を払って引越し屋に引き取ってもらうしかなかった。 けれど、ベットのない部屋でどうやって疲れ切った身体と心をどうやって癒すのか?と。 母に何年もアメリカに来ることを勧めていたが、そんなことは考えられないと言い続けていたくせに、死ぬ前にアメリカに来ると言いだしたものだから、即座にベットをオーダーした。 母のベットが来る頃、母は意識不明になって病院に運ばれ、退院することなく人生を終えた。 オーダーしたベットは家に届いており返品するタイミングも失い、箱に入ったままのベットの板を組み立てることもなく、捨てることもなく、人にあげることもなく、12年間持っていると気がついたのはソファベットがなくって隣町にかりた倉庫に向かっている時だ。私がそのベットの箱を倉庫からアパートに自分で運ばなければならなかった。もちろんマットレスはないので、エアマットレスを帰る途中に買わなければならなかった。モールが倉庫の隣りにあったというラッキーは付け加えておきたい。 そのベットはついに箱から出て組み立てられて、私のベットルームに配置された。 母のベットと呼んでいるが、事実は、母がアメリカに来たら、私のクイーンサイズのベットに母を寝かせて、同じ部屋にこの小さなベットを入れて私が彼女の面倒を見るつもりだったのだから、このベットは最初から私が寝るためのものだったということになる。だからこの日が来るまで12年も私の所

Half paranoid

父の癌の宣告、そしてそれがいかに私の人生を左右するか私に考える暇もなく、現実に突入する。 今でもあの時期を私のブラックホールと呼ぶ。 30歳、私にはまだエネルギーがあったはず。 現在の歳の半分の数字。 若い頃は自分が歳を老いた時の自分を知らないから、30歳はそれなりに”老いた歳”だった。あの頃の私はプレッシャーに苛まれていた。 私の叔母や伯父は今の私の歳から更に30年生きたのだから、60歳は若いということになる。 けれど、私の父は私の歳で死んでいるのだから、私はここで私の人生を終える準備をしなくてはならない。 頭の中がはっきりしているうちに、身体が動くうちに、やらなければいけない事をやっておかないといけないし、会って話ができるときに大事なことは話しておかないという焦りがいつも頭にある。 私より 八つ上の従兄などは叔父や伯母と同じ様に、後25年から30年は生きるとすれば、 私の焦りなどわかるはずはない。64歳で父が死んでいる私にとっては、その時がいつきてもいい歳だと思わずにはいられない。 私と父は彼の最後の4年間、多くの時間を共有した。彼はほとんど家にいない人だったから、最後の4年で全ての私たちの人生の時間を埋めてくれたわけだ。 彼が病院で問題を起こすと私が全て掛け合わなくてはならなかった。 流石に父に似ているだけあって、父の云わんとするところは理解できるから、対処もできたのかもしれない。 病院との仲違いが、ついに別の病院に移るという結論になった。では推薦状を書いて頂かなくてはという時点で、確かに折り合いが悪いから移るのだから、推薦状というのもおかしい話だが必要であった。しかし私が病院側に言われたのは、 ”向こうの病院にも迷惑がかかることですから” という一言だった。 どちらが正しいかと言い争っている場合ではなく、父が掛け合うと、よりことが困難になると思われたし、私は私の意見を主張する必要があった。 ”確かに父の性格はやりにくく、こちらの先生方とは意見が異なったみたいですが、基本的にはお医者さまが彼には必要な状態です。向うの病院の先生方とはうまく行くかどうかは、こちらの病院の状態とは関係ないと思われますので、推薦状をよろしくお願いいたします。” 私は彼の娘として、流石に”迷惑”といわれると、いい気がしなかった。しかも、父の意見に

Prologue

私の大親友が120歳まで生きると言う。私達の2倍の人生を今からまだ生きるという。 これはジョークだとして受け取るしか仕方ない。 60才まで生きるのが必死だったのに、あと60年生きようというのかい? 私の叔母は96歳、健在。伯父も90歳を過ぎるまで生きていた。晩年の彼等はとても可愛い。 認知症になってしまっているから、頭の中はさぞかしシンプルなんだろうなぁ。 7年前に叔父にあった時、従兄弟は  ”おまえのことが誰かわからないかもしれないね。”  と私をガッカリさせまいと教えてくれていたけれど、玄関に現れた私を見て、”よく来たずら” と私の名前もはっきり言った。さすがに昔、伯母に隠れてお酒を飲んだ仲である。 叔父と私の父は良く言い争いをした。 もっぱら、本家との地所の争いのことだったが。 未だに解決していないと言うのだから、呆れた話である。 叔父は死んでしまったけれど、家族の総計は私にとっては同じ。 従兄弟の一番下の子に二人目が出来ていて6歳になっていた。叔父の代わりである。 従兄の次女は晩婚だったが、子宝にすぐ恵まれた。 一番上の子は東京の方にいるので私は長い間と会っていない。3人の娘を嫁に行かせてしまっているが、一番下の子達は昔の家をリフォームして住んでいるから、御近所で、今も私の信州は賑やかである。 伯母はじーっと私を眺めているから、従兄弟の嫁が、”沙由里さんですよ。お婆ちゃん。”と教える。 ”大きくなったずら。”と言ってくれる。彼女の中の私は幾つなんだろうかなぁと。 押し車で家中を自分で動く。立派なマッサージ器はダダぴろい廊下にあり、玄関の横には広い部屋とトイレがあり、伯父が死んでしまってからは、何かがあってはいけないと従兄弟が同じ部屋で寝泊まりしているとの事。 伯母の身体は驚くほどしっかりしていた。野良仕事で鍛えたせいか、腰は曲がっているが、骨格がしっかりしている。 64歳で死んだ父を抱きかかえた時と大きな差がある。90歳を越した伯父を抱きかかえた時もそう思った。 父の姉も90才を越すまで生きた。腰は90度曲がっていたが、寝たきりになってるからも10年ほど生きたんではないだろうか? 長生きの家系の筈が、私の父は64歳で死んだ。 私は今父が死の宣告をされた歳になっている。 恐らく2年の命でしょうねを言われてから、

Breathe

息のあるものの人生にはそれなりの重みがあって、息をしていた時の記憶が残るとそれはまだ息をしているように思える。 物は息をもう一度する機会があればもう一度息をしたいと私に語りかける。 まだ私の記憶の中に生き続ける母の姿は編み物をしている姿。だから絶対編み物はしないと決めていたから、みんなに母の編物は貰ってもらい。少しの思い出を自分のものにした。 それでも必要以上の編針が私のところにある。使わなければ申しわけないかと、編物を始めるとちょっとの時間で終わるものでなく、次から次へと続けてしまう。しかも、焦って作ってしまおうとするから、目をとばしていたりしてやりなおさなければならなくなったりして、結局は予定以上の時間をかけている。 母は編む前にゲージを取って、計算して、絵書いて、一つのものを作り上げていた。 私はは適当に思い浮かんだ独創作品。母の作品とは比べものにならない。 生涯でセーターを編んだのは一回だけ。 21歳の時に付き合っていた彼氏が好きな彼女に編んでもらった手編みのセーターを着たいと言うから、編む事にしたのは茶色ベースで右側に生成の毛糸で積み木がのような幾何学模様の入ったもの。 創作作品だから、母に指導してもらわなければセーターにはならなかったと思う。 私の母は洋裁もしたが、ある時点で編物を自分の転職としてしまった。機械網からかぎ針、最終的には棒あみだった。 私は母が使わなくなったミシンを私のものにして縫いものが私の作品ツールのメインとなっっているが、私のご自慢のツールは筆だった。 筆なら誰に負けないと思った。 母の晩年は、その筆が彼女のチャレンジで水墨画に興味を持って練習していた。 彼女の編棒、彼女の筆、使わさせて貰います。 彼女の所持品はおそらく私の母との想い出の中の千分の1にも満たない。 彼女の多くの所持品はゴミになり、私はそれを2度と見ることがない。 さようなら。