Skip to main content

Each happen to have the reason No.1

時は過ぎて行く、私の決断に対する自責の念が過去になり、その決断の上にある現実に生きていく。

このアパートに引っ越した時は3年前の半分以下の量になっていた私の所持品は、通常の一人の住居の引っ越しと考えると恐ろしく一杯あった。20年以上ホームオフィスで生活してきたし、息子の思い出の物などの箱を10箱ほど捨てずに彼がいつか引き取るまで私が持ち歩いている。だから私の所持品はワンベットルームの引っ越しではない。仕事のスペースが一番大事な私の生活はベットは比較的邪魔な存在である。アメリカ人のようにベットルームがメインではない。だから、狭くなるにつれて私のベットは捨てられて行き、残っているソファーベットが私のベットになる予定だった。
引っ越しの日、私のベットはエレベーターの横に置かれたまま部屋には入ってこなかった。エレベーターに入らない!捨てることに苦労し続ける人生だから、お金を払って引越し屋に引き取ってもらうしかなかった。
けれど、ベットのない部屋でどうやって疲れ切った身体と心をどうやって癒すのか?と。

母に何年もアメリカに来ることを勧めていたが、そんなことは考えられないと言い続けていたくせに、死ぬ前にアメリカに来ると言いだしたものだから、即座にベットをオーダーした。
母のベットが来る頃、母は意識不明になって病院に運ばれ、退院することなく人生を終えた。
オーダーしたベットは家に届いており返品するタイミングも失い、箱に入ったままのベットの板を組み立てることもなく、捨てることもなく、人にあげることもなく、12年間持っていると気がついたのはソファベットがなくって隣町にかりた倉庫に向かっている時だ。私がそのベットの箱を倉庫からアパートに自分で運ばなければならなかった。もちろんマットレスはないので、エアマットレスを帰る途中に買わなければならなかった。モールが倉庫の隣りにあったというラッキーは付け加えておきたい。
そのベットはついに箱から出て組み立てられて、私のベットルームに配置された。
母のベットと呼んでいるが、事実は、母がアメリカに来たら、私のクイーンサイズのベットに母を寝かせて、同じ部屋にこの小さなベットを入れて私が彼女の面倒を見るつもりだったのだから、このベットは最初から私が寝るためのものだったということになる。だからこの日が来るまで12年も私の所持品のリストから排除されなかったのだろうか。

私が最初に広告で見つけた物件は既に借り手が決まっていたが、いくつか見て見たい物件があったので、その町を訪れた。私は本当にこの地域に無知で、勘だけが頼りだった。
最初に不動屋さんが見せてくれた物件は新しいビルで、まだ全ての部屋や地下などは完全に出来上がっていなかった。広告の部屋は一階で角部屋だった。他の物件もいくつか見たが新しいビルはやはり捨てがたい物件だった。契約寸前、私が借りるはずだった部屋は何度考えてもレイアウトが私が持っている家具と合わない。その部屋に住みやすくしようとすると、捨ててしまった家具の代わりの物を買い直さなければならなくなる。苦労して捨てた家具の代わりを買うと言う状況が私の道理に合わない。安くて狭い部屋はまだ出来上がっていないから、薦められなかったのだろうけれど、その部屋を見せてもらうと、ここ!と私の守護神が言った。狭い部屋にある備え付けの大きなカウンターバーは私が捨ててしまった家具の代用品となった。窓も向かいのビルに面していないこの部屋は余計な人の気配を感じなくて済む。
この部屋に家具を入れると無駄なく配置された。捨ててしまったソファーの代わりは必要だったが、そのサイズはハーフサイズでなければスペース的に収まらなかった。
計算されたように私の削除さた所持品はこの部屋の大きさのためにあった。

私は大きな間違いをおかし6ヶ月いる必要のない場所にいた。私自身はその半分は日本にいたのだが、私の荷物はいてはならないところにあった。しかしあの6ヶ月がなければ私は今ここでこれを書いてないのだ。

ビルの倉庫が私の引っ越しの時に間に合わなかった。これはその時には大きな問題だったが、今考えるとそれにはそれなりの意味があった。
息子のものとすぐに必要でない物は大きな町の倉庫に入っている。1ヶ月後に借りれるようになった地下の倉庫にはこのアパートに入らないもので必要なものが収納された。

メインのデスクトップのコンピューターはいつ死んでもおかしくない歳、10年目だった。スクリーンのバックライトは半分暗かったし、スタートアップデスクにも問題が出てきていた。でも使えるうちは使えと使っていたが、ついに使えなくなったのは引っ越して3ヶ月後。
去年、日本に長期滞在する為にコンピューターのバックアップを兼ねてすべてのファイルは小さなコンピュータに収まっていたが、新しいコンピューターの画面が小さいので、古いコンピューターで3ヶ月、仕事をし続け、新しい仕事のバックアップすらしていなかった。

1年以上かかって作ったオンラインの店 fab-a-la-carteは去年の日本帰国のため、事実上閉店していた。自分で最初の一歩から作った古いフォーマットの素人レベルのウエブサイトWebsiteは私のポートフォリオ。
ここを起点にして、もう一度アメリカで頑張ってみると決めたのだから、この二つのサイトに息をかけなければならなかった。先が読めないと息もかけられない。2、3ヶ月かかってようやく先に進もうとした時にコンピューターが死んだ。問題はコピーしていなかった新しいイメージをどうやっても見つけるか?もうAppleCareの電話対応では拉致があかなく、コンピューター自体をテクニシャンに見てもらうしかなかった。一度死んだコンピュターが少しの間、店で息をした。ミラクルが起こった。アップルストアのテクニシャンがファイルを見つけてくれたのか知る余地もないが、確かに全てのファイルが見える。即座にバックアップのハードドライブを購入、ファイルを移動。

ミシン用に買った小さな机はリビングルームには入らず、ベットルームの窓側に配置。美しい景色を眺めながら本を書くというセティングにしたのに、ここに座ることは27インチのコンピューターが潰れるまで無かった。日本が終わり、書く場所を見つけたら書かなければならなかったのに、何もかけなかった。モニターを購入するまで、私は8畳ぐらいの小さな部屋で小さな机に座り、窓に面して、山と川をを見ながら、書いている。
まだ残っているもの、捨てるまでに考えるもの、私の心と相談しなくてはならない。
多くの出来事が沈殿して私の心を去らない。
いずれは捨てなくてはいかないし、出て行ってもらわなくてはいけない。
必要なものはそれほど沢山いらない。必要以上にあるとどれを使っていいか分からなくなる。
見極めるのは難しいけれど、使いこなせない物は捨てて行く。
そして失ったものを消化して忘れていく。
最終的には私と体と一緒にゴミになる。それまで、少し時間がいる。
 
人生はゴミを捨てて行くこと。
そして、捨てても棄てても湧き出てくる。

Comments

Popular posts from this blog

Breathe

息のあるものの人生にはそれなりの重みがあって、息をしていた時の記憶が残るとそれはまだ息をしているように思える。 物は息をもう一度する機会があればもう一度息をしたいと私に語りかける。 まだ私の記憶の中に生き続ける母の姿は編み物をしている姿。だから絶対編み物はしないと決めていたから、みんなに母の編物は貰ってもらい。少しの思い出を自分のものにした。 それでも必要以上の編針が私のところにある。使わなければ申しわけないかと、編物を始めるとちょっとの時間で終わるものでなく、次から次へと続けてしまう。しかも、焦って作ってしまおうとするから、目をとばしていたりしてやりなおさなければならなくなったりして、結局は予定以上の時間をかけている。 母は編む前にゲージを取って、計算して、絵書いて、一つのものを作り上げていた。 私はは適当に思い浮かんだ独創作品。母の作品とは比べものにならない。 生涯でセーターを編んだのは一回だけ。 21歳の時に付き合っていた彼氏が好きな彼女に編んでもらった手編みのセーターを着たいと言うから、編む事にしたのは茶色ベースで右側に生成の毛糸で積み木がのような幾何学模様の入ったもの。 創作作品だから、母に指導してもらわなければセーターにはならなかったと思う。 私の母は洋裁もしたが、ある時点で編物を自分の転職としてしまった。機械網からかぎ針、最終的には棒あみだった。 私は母が使わなくなったミシンを私のものにして縫いものが私の作品ツールのメインとなっっているが、私のご自慢のツールは筆だった。 筆なら誰に負けないと思った。 母の晩年は、その筆が彼女のチャレンジで水墨画に興味を持って練習していた。 彼女の編棒、彼女の筆、使わさせて貰います。 彼女の所持品はおそらく私の母との想い出の中の千分の1にも満たない。 彼女の多くの所持品はゴミになり、私はそれを2度と見ることがない。 さようなら。

Prologue

私の大親友が120歳まで生きると言う。私達の2倍の人生を今からまだ生きるという。 これはジョークだとして受け取るしか仕方ない。 60才まで生きるのが必死だったのに、あと60年生きようというのかい? 私の叔母は96歳、健在。伯父も90歳を過ぎるまで生きていた。晩年の彼等はとても可愛い。 認知症になってしまっているから、頭の中はさぞかしシンプルなんだろうなぁ。 7年前に叔父にあった時、従兄弟は  ”おまえのことが誰かわからないかもしれないね。”  と私をガッカリさせまいと教えてくれていたけれど、玄関に現れた私を見て、”よく来たずら” と私の名前もはっきり言った。さすがに昔、伯母に隠れてお酒を飲んだ仲である。 叔父と私の父は良く言い争いをした。 もっぱら、本家との地所の争いのことだったが。 未だに解決していないと言うのだから、呆れた話である。 叔父は死んでしまったけれど、家族の総計は私にとっては同じ。 従兄弟の一番下の子に二人目が出来ていて6歳になっていた。叔父の代わりである。 従兄の次女は晩婚だったが、子宝にすぐ恵まれた。 一番上の子は東京の方にいるので私は長い間と会っていない。3人の娘を嫁に行かせてしまっているが、一番下の子達は昔の家をリフォームして住んでいるから、御近所で、今も私の信州は賑やかである。 伯母はじーっと私を眺めているから、従兄弟の嫁が、”沙由里さんですよ。お婆ちゃん。”と教える。 ”大きくなったずら。”と言ってくれる。彼女の中の私は幾つなんだろうかなぁと。 押し車で家中を自分で動く。立派なマッサージ器はダダぴろい廊下にあり、玄関の横には広い部屋とトイレがあり、伯父が死んでしまってからは、何かがあってはいけないと従兄弟が同じ部屋で寝泊まりしているとの事。 伯母の身体は驚くほどしっかりしていた。野良仕事で鍛えたせいか、腰は曲がっているが、骨格がしっかりしている。 64歳で死んだ父を抱きかかえた時と大きな差がある。90歳を越した伯父を抱きかかえた時もそう思った。 父の姉も90才を越すまで生きた。腰は90度曲がっていたが、寝たきりになってるからも10年ほど生きたんではないだろうか? 長生きの家系の筈が、私の父は64歳で死んだ。 私は今父が死の宣告をされた歳になっている。 恐らく2年の命でしょうねを言われてから、